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東海最前線

ワサビの魅力を伝え、その食文化の保全に取り組む(山根京子さん 岐阜大学応用生物科学部 准教授 植物遺伝育種学研究室)

2025.10.11

学術研究

(ここが最前線)DNA解析によりワサビが日本固有の植物であることを突き留め、その栽培起源を解明。ワサビのほかにもソバ属や小麦のなかまなど、植物遺伝資源の保全に取り組む研究者。

ワサビは刺身や蕎麦などの薬味として和食には欠かせない名脇役。いまや食卓にチューブタイプのワサビを常備しているご家庭も多いことでしょう。ところでワサビはどこで生まれ、どのようにして私たちの口に入るようになったのか、考えてみたことがありますか。岐阜大学応用生物科学部で植物の遺伝や育種について研究をしている山根京子さんは、長年の研究でそれを突き止め、現在は日本各地のワサビの保全にも努めています。岐阜大学の植物遺伝育種学研究室に山根さんを訪ねました。


山根京子さん 岐阜大学 応用生物科学部 植物遺伝育種学研究室にて

ワサビと出会い、ワサビに魅せられ、ワサビ応援隊長に

 ワサビといえば、あの口から鼻に抜けるツーンとした感触とピリッとした潔い辛さ。和食には欠かせない薬味ですが、うっかり食べ過ぎて頭が痛くなったり、思わず涙ぐんでしまった経験のある人も少なくないかもしれません。
家庭に常備されているワサビはチューブに入ったものが大半で、ワサビの実物を見たことのない人の方が多いのではないでしょうか。

ワサビは主に深山の清らかな渓流や湿地に自生し、長野県や静岡県などでは冷涼な気候を利用して清流や畑、田んぼなどで栽培が行われています。

“”水の都“といわれる岐阜県大垣市でも自噴水を利用した「名水わさび」の栽培が行われ、2012年には「飛騨・美濃すぐれもの」に選ばれています。

一般的なワサビの食べ方はその肥大した根茎をすり下ろして刺身やそばの薬味にすることですが、実はワサビは根茎だけでなく葉や花も食べることができ、根茎や茎を酒粕に漬け込んだわさび漬けも人気があります。最近はワサビを使ったスナック菓子もいろいろ出回るようになりました。
 
ワサビはとてもデリケートな植物なので、栽培は簡単ではありません。生育に適した水温は15℃前後で、温度差は少ない方が収量は多いそうです。しかも高温や強い光に弱く、病害虫の防除なども必要です。

研究のためにワサビの栽培を始めた当初、山根さんは「ワサビはとんでもない植物だ」と思ったそうです。

山根さん「すぐに腐ったりしてなかなかうまく育ちませんでした。栽培がめっちゃ難しい。これは大変なものを研究対象に選んでしまったなと…」

そんな山根さんでしたが、研究すればするほどワサビに魅せられていきました。そして今では自称“ワサビ応援隊長”として、ワサビを求めて日本中の山や谷を歩き回るようになったのです。

自生するワサビ(写真:山根京子さん提供)

京都の北山にある芦生の櫃倉谷(ひつくらだに)を調査する山根さん。
一人で深山に分け入ることも多い。(写真:山根京子さん提供)

 

一度しかない人生だから好きなことをして生きよう

小学校高学年から中学、高校、大学とバリバリのリケジョ(理系女子)だった山根さんは、大けがを負い、一時寝たきりの生活を余儀なくされました。その時、頭に浮かんだのは「人生は一度しかない。だから好きなことをして生きよう」ということ。もともと純粋に学問を究めたいという切実な願いを持っていた山根さん。奇跡的に回復した後は、お金を貯め、念願の京都大学大学院農学研究科に進学。その途上で出会ったのが『栽培植物起源学』という本でした。

山根さん「栽培植物起源学とはイネやソバ、コムギなどの主要な栽培植物が、いつ、どこで、どのようにして生まれたのかを明らかにする学問です。そのためにはフィールドワークで採取した栽培植物を研究の対象に、栽培や観察、記録しながらゲノム配列を解析することで、植物のゲノムに刻まれた歴史を明らかにしていきます。私は理系ですがもともと歴史や文学も好きで、一つの謎を遺伝学や民俗学、地質学などいろいろな分野から解明することに大きなロマンを感じました」

 

豊かな自然に恵まれた岐阜を拠点にワサビの研究を続ける

ワサビと出会ったのは大学院時代。教授の研究テーマはソバでしたが、研究室の先輩に「どうせなら自分の材料で研究したい」と相談したところ、「ワサビはどう?」と勧められたのがきっかけだったそうです。

京都大学大学院で農学博士の博士号を取得し、卒業後は大阪府立大学に助教授として着任。5年間の任期を終えた後は、公募により岐阜大学へ。応用生物科学部の助教授(2017年から準教授)として、今日まで学生を指導しながらワサビをはじめとする栽培植物の研究を続けています。

山根さん「岐阜県は水がきれいで自然が豊か。野菜やそのほかの食べ物も新鮮で、岐阜が大好きになりました。岐阜大学の学生はみんなハツラツとして、良い子ばかり。勉強に対する姿勢もまっすぐでまじめです。私は京都生まれですが、現在実家は滋賀県にあり、岐阜県はお隣です。いつのまにか岐阜のファンになっていました。ただ東海地方は、女性の進学率が低い傾向にある気がします。ぜひ、大学院にも進んでほしいです」

 

幼い日の父とのワイルドな体験が導いた真理探究の道

ワサビの研究を続けるうち、全国各地から山根さんの元にワサビに関するさまざまな情報が集まってくるようになりました。フィールドワークには単独行も多いといいます。

山根さん「ワサビの栽培起源地の多くは深山幽谷。野生動物との遭遇や滑落の危険もつきまとう奥地です。これまでにクマ以外はたいていの動物に出会いました。時にはヒルに血を吸われ、頭にマダニを9匹もつけて山中を飛び回ったこともありました。危険なので1人で山に行かない方がいいのですが、私の場合、人と予定を合わせるのが難しいこともあって、単独行が多いのです。そんな話をすると、ある大企業の社長夫人に『いったいどんな幼少期を過ごすとそんなふうになるのかしら』」といわれて、ふと過去を振り返ると、そこには父・勝清の存在がありました。父は好奇心旺盛な人で、とにかく野生的でしたね。雀を捕獲して姿焼きにしようとしたり、小エビやウナギを捕まえて料理したり、海でウニを獲りに島まで泳がされたこともありました。ある時は飼育していた巨大なオタマジャクシが逃げ出してしまい、近所が大騒ぎになったこともあります。そんな父に影響されてか、私は虫が好きで、小学校の高学年までは野生動物や昆虫などを捕まえて飼育していました。当時は京都市内も自然が豊かで、夏になると蛍が舞っていました」

エンジニアだったという父の勝清さんは、娘の山根さんに身をもって全力で人生を楽しむことを教えてくれました。いったんこうと決めたらとことん対象と向き合い、決して逃げないこと。それは今の山根さんの生き方と通じるところがあるようです。

 

特別天然記念物に指定されているニホンカモシカ。
山中では時にはこんな野生動物に出くわすこともある。(写真:山根京子さん提供)

 

日本史を切り口にワサビの栽培起源を探る

2020年、山根さんは文一総合出版からワサビについて初めての著書を出版しました。その名も『わさびの日本史』。

ワサビ色の表紙にワサビの葉や根茎、あるいは調理する男の絵が印刷されたデザインは秀逸。、帯には山根さんのイラストとともに「ありそうでなかった栽培植物起源学からみたわさびの本」というキャッチコピーがついています。

栽培植物起源学という聞いたこともない学名と謎めいた本のタイトルによって、生物学の知識のない人や理科の苦手な人でも抵抗なく本書を手に取ることができ、わくわくするような歴史浪漫の旅へと読者を誘ってくれます。

山根さん「『わさびの日本史』を書いたのは、研究に関する資料や成果などがかなりたまってきたので、本としてまとめたかったということと、売り上げが少しでも研究費の足しになればという思いからでした。まずは膨大な資料を年表化することから始めたのですが、これはなかなかおもしろいものが書けるんじゃないかと。そこで自然関連の図鑑や専門書を出している文一総合出版さんにアプローチしたのです」

本書を読んで大変驚いたのは、山根さんの日本史についての豊富な知識と理解。そして、ワサビの歴史をたどるために資料として読み解かれた膨大な古典籍の数々。表の歴史には登場しないけれども、ワサビの歴史を紐解くうえで大変重要な人物などを、山根さんは掘り起こしたのです。

ワサビの歴史は日本の食文化の歴史でもあるとつくづく思い知らされました。さらには意外なワサビの食べ方や、有名な昔話に登場するワサビの信じ難い使い方など、そのおもしろさを数えあげればキリがありません。

「わさびの日本史」はさまざまなメディアや書評でも取り上げられました。それは食文化を切り口とした新しい歴史の捉え方を示唆しています。

山根さんの著書『わさびの日本史』 文一総合出版刊

 

三鷹大沢わさびのルーツは岐阜 復活への取り組み

日本の固有種であるワサビは現在14カ国以上で栽培が行われて、日本では価格が下落。栽培者の高齢化などもあいまって古くからのワサビ田は各地で放棄されています。この現状に山根さんは大変心を傷め、ワサビ属植物の現地調査や植物収集を行っています。

山根さん「ワサビやその近縁の野生種に関して、これまで分布調査などはされたことがなく、遺伝や進化の研究もほとんど行われてきませんでした。当研究室ではこれまで2005年の調査開始以来、全国で150を超えるワサビ自生地の調査をしてきました。失われつつある情報を記録し、遺伝資源を保全していくことは喫緊の課題です。日本の豊かな森林資源に育まれ、数少ない日本固有の栽培植物としてワサビが持続的に利用され、資源として保存されるよう、DNA分析と民俗学を融合させることで調べていきたいと思っています」

また、ワサビは食物としてだけでなく、いまや医療・美容分野でも注目されているそうです。

山根さん「わさびをとることで“幸せホルモン”と呼ばれるセロトニンが分泌され、気持ちが良くなって何度も食べたくなります。そうすることで心と体の健康が維持できるのではないでしょうか」

現在、山根さんはワサビの辛味成分の研究を行うとともに、東京都三鷹市が管理運営する古民家で「三鷹大沢わさび」の復活プロジェクトにも携わっています。三鷹大沢わさびは江戸時代後期から1960年代まで出荷されていた幻のワサビで、分析の結果、希少な在来種であることが判明。もともとは伊勢国(現在の三重県)出身の人物が湧き水豊かな大沢地区に目を付け、伊勢から持ち込んだワサビの栽培を始めたのがきっかけでした。このワサビのDNAを分析したところ、岐阜県山県市の山間部に自生するワサビと一致することが判明したのです。

山根さん「岐阜がルーツだと判明して嬉しくて…今回の取り組みはワサビの資源と食文化をともに保存するための画期的な取り組みです。産学官連携でがんばります」

山根さんは目を輝かせながら話してくれました。まもなく『わさびの日本史』の改訂版が刊行されるそうです。

 

【山根京子さん プロフィル】
岐阜大学応用生物科学部・準教授、大阪府立大学大学院生生命環境科学研究科・助教授(任期付)。
京都府京都市出身。京都大学大学院卒業。農学博士。

 

【取材・文】
松島 頼子
岐阜県出身。岐阜県を拠点に約20年、地域の活性化から企業家インタビューまでライターとして幅広く活動。実家はお寺。地域の歴史や文化、伝説などを深掘りすることで、まちの活性化や地域を見直すことにつなげたい。
「里山企画菜の花舎」 代表
里山企画菜の花舎